夢のトイレ56

夢のトイレ56  そして思考が続く。便はどこまで到達したら便意を感じるようになるのだろう。便の代わりに何か別の固形物を肛門から逆行性に注入しても便意は生じるのであろうか。便意は何のために存在するのであろうか。そもそも便意とは何であろう。便意とは別な苦しみとして痛覚というのもある。痛覚をなくして人は生きてゆけないという話を聞いたことがある。魚には痛覚がないという話も聞いたことがある。でも魚は生きている。「痛覚がなければ生きてゆけない」という命題と、「魚には痛覚がない」という命題の、どちらか片方は間違っているということになる。いや、どちらも正しい場合だってあるのかもしれない。「痛覚がなければ人は生きてゆけないけど、痛覚がなくても魚なら生きてゆける」という場合だ。それでは便意ならどうだ。便意がなければ人は生きてゆけないのか。そして魚ならば便意がなくても生きてゆけるのか・・・  願わくは、ボクは魚になりたい・・・  (つづく)